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12月の予定
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# by the_river_knows | 2016-11-30 11:22

武器術のすすめ(前のまとめ)

そういえば大昔、僕がまだ実際に松聲館に通う前、本でしか甲野先生のことを知らなかった頃のことだ。 そのころはまだ合気道をやっていて、まだ直心影流の稽古にも顔を出していた頃かなあ。

どんどんうろ覚えになってゆくが、甲野先生の本のなかにこんな内容のことが書かれていた。 とはいえほんとにうろ覚えなので、今回の話はそのあとに読んだことや考えたことが、多分に混ざっている。

それは端的に言えば、体術メインの人でも武器はやるべき、という話。とくにひとりで稽古する場合、武器の稽古は身体をより育ててくれる。

理由はとりあえず二つある。(ちょっと増えるかもしれない)
まず武器が他者であり、特性を持っていること。とくにひとりで稽古する場合、武器の稽古は「武器のあつかい」の稽古だ。これは武器を自由にあつかうための、自分と武器の関係をつくることだ。
ここで、武器を自由にあつかうといったとき、この自由は「好き勝手に」ということではなく、「その武器の特性を十分に発揮させる」ということだ。そのために、自分の身体が過不足なく動けるように、というのが武器の稽古だ。
そうなると、武器の稽古は、武器を受とした体術の稽古でもある。おおざっぱな言いかただけど。

もうひとつは、武器が他者であり、制限を持っていること。前と似たような話だが、ネガティブな側面。 武器、あるいは武器術というものは、当然いくつかの制限を持っている。これを満たさないと、その特性が発揮されないというものだ。
たとえば剣術であれば、刃筋が立たなければ斬れない。たとえば抜刀術であれば、刀を抜くときの両手の軌跡が刀の反りと合っていないと抜けないとか、そういったものだ。
そういった制限を守らないと、武器はその特性を発揮できない。その意味で、このことと前のこととはポジティブ・ネガティブで表裏なのだといえる。 この二面から、武器は身体の動きを要求し、ダメ出しをしてくれる。

そして三つ目にあたるものとして、武器はその特性と制限とが一定であるということ。生きてはいないから当たり前なのだが。 これは稽古というものがトライ&エラーだと考えたとき、とても重要なこと。
たとえば、体術の稽古で、対人間で動きを考えるとする。そのなかで受に技をかけてゆくと考える。一度技がかかった相手は、つぎには用心をする。こうなるとトライ&エラーのなかに「自分の動きを考える」だけでなく、「駆け引き」の要素が入ってしまう。
無論、駆け引きは武術が本来あつかう「格闘」というものの中で、重要な項目だ。でもここで前提になっている稽古のテーマは、「自分の動きを考える」だ。 よけいな要素は、ここではよけいな難度をあげてしまう。
対人間の稽古でこの弊害をなくすには、昔の稽古として読んだことがある「受が絶対的に上位な稽古」が必要だと思う。彼らなら、条件を一定にして稽古させてくれるかもしれない。 でもこれ自体ユートピアな感じだし、第一今はなかなか実現しない。似たような能力の人間が、交代で捕と受を稽古しているというのが多くのケースなのではないか。
その点、武器をあつかう稽古は、形状や条件が一定なので、自分の動きを考えるトライ&エラーをかなり容易にしてくれる。
なにしろ武器は人間に比べて一定だ。トライ&エラーの結果の責任は、すべて自分にあるわけだ。 自分の動きを変えるしかない。 そう考えれば、「自分の動きを考える」稽古は単純に、確実なものになる。

武器の稽古でも、その武器術の特性・制限は、当然違ってくる。たとえば松聲館での武術でいえば、剣術、抜刀術、杖術が一般的なところ。
おおざっぱに言えば、剣術は「振り下ろす」ことが中心だから脱力、重さ、重力などをテーマにしやすい。 杖術は「返す」ことがメインだから、変化や慣性のコントロールを考えやすい。 抜刀術は「抜くこと」が他の二つよりもはっきりとメインであり、このことは他の二つよりもより細かい制限だ。それは鞘というものの長さと細さによる。 これらは純粋にわけれるものではなく、ある割合が強いというようなものだが、武器という生きてない他者を使って自分を振り返るチャンスになることは確かだ。






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# by the_river_knows | 2016-11-30 10:32

無題、というかまとまらなかったからただのコピペ

そういえば大昔、僕がまだ実際に松聲館に通う前、本でしか甲野先生のことを知らなかった頃のことだ。 そのころ読んだ本のなかに松聲館での武術の性格についてこんな話があった。

やっぱりどの本かは忘れたが、人に聞かれたこと(刀を持っているから「剣道ですか?」的な質問)に対して答える形式で、昔の武士というのはいろんな状況で戦わなければならないから、剣を持っていれば剣術で、なければありあわせのもので対応しなければならない、といった内容だったと思う。

話のオチとしては、やっぱりうまく通じないというやつだったと思うが、ここから話は術理が大事という話になっていったと思う。

つまりはさすがに昔の武士だって、すべての技術に個々に熟練するのは困難で、だからこそ「身体の使いかた」をさまざまな武術に応用するということ。 細かい言い回しは忘れたけど、少なくとも僕が理解した「松聲館の武術」というものはこういうモデルとして存在しているものだった。

それはもう少し具体的には、松聲館の武術というものは、ジャンル(体術とか剣術とか)ごとに独立しているわけではなくて、相互に絡み合っているものだということ。
少なくともこのことは、僕にとって松聲館の武術の大きな魅力だし、今でもそうだ。

あ、説明というかがうまく繋がらないが、「身体の使いかた」=術理、でこのお話では考えてください。

そしてそれは実際の稽古でいえば、どれか自分の好きなジャンルを頑張れば、他のジャンルもある程度はうまくなれるということ。 これは基本的にはものぐさな僕には大きな魅力。 でも大きな問題として、どこがどう繋がるのか?

とはいえそれぞれのジャンルにはそれぞれの特性があるのも当然事実。とくにそのジャンルの「ごく初歩的なこと」は基本別物。だって違うジャンルなんだし。 だからこそ同じことを違った角度から考えることもできる。

また複数のジャンルで同じような動作をつくることで、その動きのレベルを上げるアイデア(まあ術理)がより普遍的なものなのか、ある状況限定の単純なコツなのかを考えることもできる。

そして少し前からほったらかしの疑問、どこがどう繋がるのか? ひとつひとつあげてゆくとキリがないので、原則みたいなことをあげる。

抽象と具体の度合いをコントロールする。たとえば、動作から意味をはぎとってみる。突く、押す、斬るといった動作を、たとえば腕を伸ばす、といいかえてみる。腕を伸ばす、という機能の向上が、稽古のテーマとして考え得るようになる。

そこから今度は具体を考える。この「腕を伸ばす」動きはどう稽古するか、どう検証するか。 たとえば稽古には、ひとりで稽古するのなら武器が向いているかもしれない。でも検証の場合、はやさを検証するならともかく、威力を検証するには体術のほうがいいかもしれない。



だってそうでしょ。パートナーに対して木刀持って、「今から何パターンかで殴ってみるから、どれが痛いか教えて」って、そんな練習無理でしょ。

簡単に練習の組み立てを考えただけでもジャンルを横断してしまうし、したほうが練習のバリエーションが多くなる。



ちなみにこれは反対のパターンもある。たとえばある身体の使い方を思いついたとする。たとえば抜刀術の鞘引きのやり方。これを「腕を曲げる」と考えて、いろいろ使い回してみる。相手を引き付けるのに使えないか?肘打にならないか?





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# by the_river_knows | 2016-11-13 21:15

抜刀術について1

そういえば大昔、僕がまだ実際に松聲館に通う前、本でしか甲野先生のことを知らなかった頃のことだ。 たしか読んだ本のなかに抜刀術の位置づけについてこんなことが書かれていた。抜刀術は剣術の中での、「無刀捕り」への段階的な技術。 細かな文は忘れたが、そういうようなこと。

例えば同じ「刀を抜く技術」である居合とは、位置づけが違うという認識。 それはそのころ松聲館で稽古していた僕と、少なくとも僕と親しくしてくれていた人たちの間では共通認識だったと思う。

当時は甲野先生が振武館の黒田鉄山先生とさかんに交流していた時期でもあり、僕自身も松聲館で稽古しながら大宮の講習会にも顔を出していた(入門はしていない)。松聲館の稽古の中でも講習会で学んだ民弥流をやったりして、当時は居合と言えば民弥流なイメージだった。

なので、ここからの居合と抜刀術の対比の居合側は、民弥流(僕が理解した範囲での)ということになる。武術界全体で認識されているものではないことは、広い心で理解していただいて、おつきあいいただきたい。

例えば居合は「はなれ」という技術によって「近間の弓鉄砲(これも甲野先生の本のなかにあったと記憶。出典あいまい)」ともいわれるように、飛道具のようなイメージ。 対して抜刀術は、相手の攻撃に対しての体捌きのなかで刀を抜くイメージ。

そうなると実際にそれぞれの形というかうごきをするときの意識も変わってくる。 端的に言えば、お互いに構えて向かい合ったとき、抜刀術であれば「間合い」を意識するのだが、民弥流の真似事のときは「射程距離」の意識になる。そんな感じ。

もうちょっと言うと、「間合い」は「関係性の中での主観的なもの」数値化には向かないもの。呼吸を合わせたり、リードしたり。 「射程距離」は時計やものさしで数値化しやすいもの。

戦術的なことで言えば、「間合い」をはかる、つまり抜刀術として対した時は、こちらのやりやすいように打ち込ませたい。でも居合として、「射程距離」をはかりながら対した時は、当たるところにいるのなら機先を制して、なんならこっちから動いてもいい感じ。

そんな位置づけなので僕たちの抜刀術は、無刀捕りのための体捌きを「刀を抜く」という技術のなかで育てるもの、と考えることができる。

これが僕たち(って誰だ?)の抜刀術の、ひとつの位置づけ。



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# by the_river_knows | 2016-11-11 21:27

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# by the_river_knows | 2016-10-31 12:19